川島繁彦さん(終戦と食糧) 衛生兵だった川島繁彦さんは、東金の部隊で終戦を知ることになりました。 医務に携わっていたことから、部隊が所持していた、薬、糧秣(兵士や軍馬のために備蓄した食料)、乾パン、缶詰、米などを分配することになり、川島さん自身は、馬をあげると言われたが、貰ってもしょうがないと断り、乾パン、缶詰、米、みそ、しょうゆを分けてもらいました。時代が時代なので、みんなリアカーでとりにきたそうです。 志那事変に行った人…
倉田禎夫さん(終戦と死生観) 1945年8月15日、伍長として仙台の予備士官学校で終戦を知る。 出兵時、髪の毛を切って、爪をきって、隊長にあずけて、遺骨代わりだった。 死ぬ覚悟は、既にできていた。 敗戦を知った時、終戦で負けて悔しいとは思わなかった。 これで、命が助かったと正直思った。 ・・・ 「兵隊は、みんな、心の中ではホットしたんじゃないかな? 国のためといっても、誰でも命は惜しい」 そして、冗談交じりではあるが、印象深い…
鈴木信子さん(終戦 干し草の日) 鈴木信子さんは、草を刈っては、天秤棒で吊るし、庭に運び干して、干し草を作るのが日課だった。 干し草は軍馬の餌となる。 1945年(昭和20年)8月15日 12時にラジオから天皇陛下の声が聞こえる。 天皇陛下は、当時、姿をみることも、声も聞くことさえ出来なかった。 天皇陛下の声に驚いた! それは、終戦を知らせる声だった。 干し草の仕事中、晴れた日でした。 今でも1節だけ憶えています。 「耐え難きを耐…
成東駅爆破 慰霊式 2018年8月13日 成東駅爆破 慰霊式 2018年8月13日 いまから73年前。 昭和20年8月13日 11時58分、成東駅は米軍機の機銃掃射による空襲を受け、駅舎もろとも爆発しました。駅の構内に停車していた日本軍の高射砲や弾薬を積んでいた貨車が標的となり、出火から18分後、懸命に貨車の切り離し作業を行っていた駅職員15名、兵士27名が、一瞬にして犠牲になりました。終戦の2日前の惨事でした。 駅職員の犠牲者には、14…
鈴木信子さん(兵隊さんからの手紙) 75年以上前の戦中、女学校時代に慰問文を書かされていた。 生徒全員が、戦地の兵士宛てに応援の意味を込めて書いた手紙である。 慰問文を書いたことも忘れていたある日、職員室によばれてしまう。 なんと、慰問文の返事が私だけに来たのである。 教頭先生との問答、 「知ってますか?」「知りません。」 「個人で手紙出してはいけません」「・・・はい」 慰問文の内容は 「私は学生です。**の勉強をしてます。兵隊さん…
倉田禎夫さん(学徒出陣) 昭和20年5月 東京の麻布中学校で学徒出陣の特別甲種幹部候補生の試験を受け、合格した。合格から2ヶ月後、出兵。 兵隊になるのは、恐いとか言ってられない時代、嫌だろうがなんだろうが連れていかれた。逆らうなんてことは到底できるわけはなく、絶対的だった。 世の中が今とは全く違っているのだ。 天皇陛下のため死にに行く、ただ、それだけのことだった。 入隊で家を出る時は、もう二度と家には生きて帰ってこれないと…
川嶋繁彦さん(入隊と食料難の時代) 山武市 富田在住 川嶋繁彦さんインタビュー 川嶋繁彦さんは、二十歳という若さで徴兵されました。 兵隊に行かないと男としては一人前でない時代で、戦争は末期で敗戦色が濃かった。 神社でお参り、挨拶し、成東駅まで、笛、太鼓の楽隊で送られた。 千人針、日章旗、寄せ書き、もう無我夢中だった。 成東から和田、日向に向かう電車が曲がるところで死も覚悟したという 外地にいかず近衛兵だったので運がよく、生きてこれた…
波切不動のライブペイント へぎっちゃんのライブペイント 浪切不動院(長勝寺)は、天平年間に行基が難破船の海難除けとして不動尊像を刻んだものを、弘法大師が石塚山に移し開眠供養し寺を建てたとされています。 山門をくぐり長い石段を登ると鮮やかな紅色の本堂があります。 ここから山武市成東の町並みが一望できます。 本堂には、不動明王と「こんがら」「せいたか」の二童子が安置され、古来浪切不動院と呼ばれています。 現在は海岸が後退したた…
大木昭晃さん(成東駅列車爆発) 山武市成東駅に勤務していた大木さんが遭遇した思い出したくない事件を語っていただきました。 しだいに、敵の弾が集中してくるようになったが、逃げるわけにはいかないし、どこにも逃げ場はない その間に、貨車が出火し、火を消そうと必死に井戸を探している時、頭が割れるような 爆発が起こった。 洋服がワカメのようにズタズタとなり、体の血は、洋服のボロを包帯代わりに巻いた。 駅の建物はなく、津辺が見えていて、周囲…
川島繁彦さん(出征前の食糧難) 山武市在住 川島繁彦さんの戦争体験インタビューです。 出征前 食糧難であったこと 時代が本当に悪かったこと 今まで口に出さずにいたこと そんな時代を伝えていきたいと重い口を開き、当時のお話しをしてくださいました。 大正13年 8月13日 生まれ