衛生兵だった川島繁彦さんは、東金の部隊で終戦を知ることになりました。
医務に携わっていたことから、部隊が所持していた、薬、糧秣(兵士や軍馬のために備蓄した食料)、乾パン、缶詰、米などを分配することになり、川島さん自身は、馬をあげると言われたが、貰ってもしょうがないと断り、乾パン、缶詰、米、みそ、しょうゆを分けてもらいました。時代が時代なので、みんなリアカーでとりにきたそうです。
志那事変に行った人は、餓死や病気が蔓延し、近所でも前の家の方、近くの方が無くなったそうです。
「近衛兵として勤務し外地に行かなかったため、運がよかった・・・
今は、思い出したくない・・・。」
22の時の兵隊へ、結婚が25歳、農家もやって・・・
あのころは、着物も配給され、切符によって決められた数だけくばられた
最後の感想で、残された家の方が苦労したでしょう。と漏らしているのが印象的です。
「 一番、困ったのは食料でしょうね。 」
さんむV-Rでは、山武地域での戦争体験のインタビュー動画を公開しています。